レインボーブリッジ [土木構造物]

両国・隅田川 (43).JPG

先日、両国から水上バスに乗り隅田川を下って東京港に入った。

かつて隅田川は、吾妻橋付近を境に上流を隅田川といい、下流は「大川」と言われていた。落語などではよく聞く川の名前だ。現在では佃島近くを大川端と呼ぶことで、かすかに記憶に留めるだけである。
川の右岸・左岸は、上流側から見た右と左で、浅草は右岸、両国は左岸である。江戸時代この川を境に右岸が「武蔵の国」左岸が「下総の国」といいこの川を跨ぐ橋を「両国橋」と名付けた。
ちなみに千葉の房総半島は「上総の国」。どう考えても下総の国が上(北)で上総の国が下(南)にあるのだが、昔は京都を中心に上と下を考えたため、房総半島は京都に近いと認識されていたのだろう。

東京港はかつての「江戸前」である。水深は浅く、漁法が発達していない江戸時代でもたくさんの魚や海苔が獲れた豊かな海だった。横浜が開港した1859年から数えること82年、1941年(昭和16年)東京港はやっと国際港になれたのである。東京港は長い間横浜港の補助港でしかなく、浅い海が大きな船を拒んでいたのである。船が入れる水深を確保するため、海底を浚渫して埋立てをするのと同時に、隅田川の水を岩淵水門で分けて荒川に流し上流から運ばれてくる土砂で埋まることも防ぐのに長い時間がかかったのである。東京港が開港した昭和16年といえば、日本が第二次世界大戦を始めた年であり、その後も東京港の整備は遅れた。

しかし、悪いことだけではない。物流の革命である「コンテナ」の時代に突入するのである。
それまで、船から荷物を揚げるのは船に装備されたクレーンである「デリック」で「ハシケ」という荷を積むだけの船に積み替え、ふ頭に揚げていた。すなわち人海戦術、労働集約的仕事であった。それが一気に箱詰めの荷物を「ガントリークレーン」でトレーラーに積んで運んでしまう・・・人はいらない。
この大いなるシステムの変換期に横浜は、長い間労働問題でコンテナ対応が遅れた。逆に東京港は、一気に近代港湾に生まれ変わり、その拠点が大井ふ頭なのである。

レインボーブリッジは、1993年(平成5年)大井ふ頭の北端からさらに隅田川寄りに造られた。周辺の平らな地面から船がくぐれる高さまで橋げたを上げるため、芝浦ふ頭の脇でループ状にしながら高さを稼ぐ「苦肉の策」も講じている。涙ぐましいというかお金がかかっている。
そんな知恵と技術とお金を掛けた東京港を象徴するこの橋の真下をくぐった。あまりの構造の複雑さと様々な配管に息を呑んだ。人が作る大きな構造物にはいつも圧倒される。


なんとも美しい

両国・隅田川 (44).JPG

この複雑さに息を呑んだ


両国・隅田川 (45).JPG


両国・隅田川 (46).JPG

タグ:東京港 DP1
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コメント 2

cjlewis

いつもながら勉強になります。。。
コンテナって、、、そうだったんですね。
両国橋は、大川に架かる橋だから、
通称「大橋」と呼ばれていたと父から聞いたことがあります。
両国橋より少し遅れて完成した新大橋は、
新しくできた「大橋」で「新大橋」だそうです。
ここにもちょっとだけ「大川」の名残りが。。。
by cjlewis (2009-10-30 11:59) 

esme

>cjlewisさま
コメントありがとうございます。
「新大橋」も大川の名残りだったんですね・・地名ってとっても大切な先人たちの「記録」ですよね、町村合併で多くの記録とともに「記憶」も無くならないような配慮が必要だと思います。学校の廃校もしかりですよね・・・
by esme (2009-11-04 22:27) 

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